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第1回吉崎経済会議

 当財団は福井県あわら市と共催で10月24日、第1回吉崎経済会議を同市の吉崎御坊蓮如上人記念館で開催、大谷暢順台下の「蓮如上人が育んだ『四方よし』」と題した基調講演=以下、全文掲載。経済界のトップと同市長のパネル討論を行った。
 我が国初の寺内町(じないちょう)である吉崎御坊は、区割りされた住居で商人が、「自利利他(じりりた)」の佛法による商いを行なった。これが後の近江商人の「三方よし」、大坂商人の「質素、倹約、始末」の思想に繋がった。
 先ず、地元福井県選出の稲田朋美衆議院議員が「この会議が『日本版ダボス会議』となることを期待する」と祝辞。続いて、台下は、「日本経済の根本精神は吉崎が発祥の地」とした上で、「佛法興隆を加えた四方よしを蓮如上人が育んだ」と新説を披露された。
 パネル討論には、伊藤忠商事の小林栄三名誉理事、日本生命保険相互会社の岡本圀衞相談役、JTBの田川博己取締役相談役、佐々木康男あわら市長が登壇。佛教精神に基づく商いの心や地域の活性化等について語り合った。



 蓮如上人が説いた「自利利他」の心と商いについてのパネル討論




【大谷暢順台下の基調講演】

「蓮如上人が育んだ『四方よし』」


本願寺法主

本願寺文化興隆財団理事長

大谷暢順


 近江商人による「三方よし」の理念は、我が国を代表するトップ企業の商訓として今も連綿と受け継がれています。本日は、この商いの心を育んだ蓮如上人と我国初の寺内町・吉崎との関係についてお話したく思います。先ずは、我々日本人が改めてこの「三方よし」の精神を理解し、誇りを以って世界に伝える事を期したこの会議ですが、残念乍(なが)らコロナ禍で、参加を限定せざるを得なくなりましたが、それでも、地元の政界、財界、文化人の方々にできる限り、お集りいただいた次第であります。
 又、ご協力下さいました稲田朋美先生、あわら市長をはじめ、伊藤忠の小林さん、日本生命の岡本さん、JTBの田川さんに御礼申します。
 日本の商いの原点は「近江商人」にあるというのが概(おおむ)ね定説となっているかと思いますが、更にその本源を遡(さかのぼ)れば蓮如上人に往き当ると考えられます。
 ところで、「都市」の発生については、我が国は西欧諸国と比べてかなり遅れています。西欧の都市はその形成期から周囲を堀で囲んで要塞化していましたが、日本ではこの様に町を防禦(ぼうぎょ)する事にあまり意を用いなかった。これが都市発達の遅れた原因の一つではなかろうかと、私は考えます。
 その中でたゞ独り、町を土や石の塀で囲んで住民を外敵から守る術を我が国の戦国時代初頭に、蓮如上人は案出されました。
 当時東山の麓にあった本願寺は「さび/ \として参詣の人一人もなし」という状況でしたが、西暦にして一四五七年、蓮如上人が住職となると、忽(たちま)ち寺は群参(ぐんさん)の人々で賑わい返ります。
 上人は畿内一円のみならず、北陸や尾張、三河まで足を延ばして布教教化に励みますが、中でも近江には十ヶ所程の門徒集団が誕生しました。
 日本では古く平安時代から荘園制度が行われて、国土の殆(ほとん)どが、三千以上、権門勢家(けんもんせいか)の所有する荘園に分れていました。然(しか)るに源頼朝の守護地頭配置以来、彼等が荘園を蚕食(さんしょく)し始め、こゝに民衆は二重の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に苦しむようになります。
 武家は鎌倉幕府の確立で、支配力を強めていましたが、次で室町時代頃になると、農業技術の改良等で庶民が徐々に力を持ち、畿内、北陸の先進地帯では、荘園の枠を離れて、郷、惣村(そうそん)等の農民の自治組織が生れます。
 鎌倉時代には、地頭は農村の年貢等の取立権を、荘園領主の派遣していた荘官から奪い、これを地頭請(じとううけ)と言いました。然(しか)し南北朝時代から室町にかけて勢力を伸ばして来た農民は自主的に村全体で集め合って、地頭や荘園領主に年貢を収めるようになり、これを百姓請(ひゃくしょううけ)と称するようになりました。


寄合で門徒集団形成した蓮如上人


 彼等は定期的に会合を持って、田の灌漑や山の入会権に至る迄、凡(すべ)ての取極を行って、次第に完全な自治組織を作り上げて行きます。
 蓮如上人は畿内各地や近江で、このような郷、惣村の寄合に頻繁に参加されたに違いありません。先に申しました近江に於ける十ヶ所程の門徒集団とはこのような寄合から発達したものだと思われます。これ等の集団によって形成された郷は、自衛の為に周囲に堀や土塀を築くようになります。
 近江では比叡山延暦寺が方々(ほうぼう)荘園を所有したりしていて、相当な影響力を持っていましたが、蓮如上人の布教の為、それに翳(かげ)りが見え始めます。
 そこで寛正六年(一四六五)、その衆徒は、東山の本願寺を襲撃して堂宇(どうう)を破壊しました。上人は身を以(もっ)て難を逃れ、近江各地を転々としますが、こゝへも叡山衆徒の襲撃が繰り返され、やがて上人は琵琶湖の航行の支配権を掌握している手工業、運送業者の構成する湖西・堅田の郷に難を避けますが、応仁二年(一四六八)に比叡山と対立関係にある大津三井寺に一旦安住の地を見出し、そこにも大勢の門信徒が群参するようになります。
 然し都に近接するこのような所では、比叡山等の旧佛教勢力の暴力による掣肘(せいちゅう)を蒙(う)けて、教化布教に専念できないと痛感して、上人は文明三年(一四七一)初夏の頃、越前、加賀一円巡化の後、この越前の吉崎へ居を移す事となります。
 これは彼が本願寺の跡を継いで十五年目の事ですが、驚くべきは既に住職継職の時点に於(おい)て、或いはそれ以前から、吉崎移住を決心し、種々(いろいろ)とその計画を練り続けていた事です。これは奈良の興福寺經覚の日記等から読み取れます。
 興福寺は延暦寺と並ぶ日本佛教の双璧で、その中に大乗院という門跡寺院がありました。經(きょう)覚(かく)は同時に大乗院門跡でもあり、大和国全体を治める大変な力を持った大和国守護職も兼ねていました。


興福寺經覚に交渉、吉崎に布教拠点


 この聖俗の権力者とどうして上人が昵懇(じっこん)であったかと申しますと、經覚の母が本願寺の出身であったからで、この人は浄土真宗の信仰心が深く、晩年は本願寺に帰り住み、そこで没しています。それ故蓮如は經覚とは従兄弟同士になりますが、二十才も年下でした。
 經覚は蓮如の若い頃から、頻繁に母の実家の本願寺を訪れ、又蓮如の方も始終興福寺を訪れています。二人は恰(あたか)も師弟関係の如くで、佛法のみならず、世事にもあらゆる面で造詣の深い、大乗院門跡と大和守護職を兼ねたこの大人物から学び取るところは少なくなかったと思われます。
 やがて經覚に代って、尋尊(じんそん)という人が大乗院門跡になり、越前の興福寺荘園、河口・坪江の両荘に反銭(たんせん)を課します。当時不作続きで年貢上納にさえ苦しんでいた荘民達は代表を奈良へ送って窮状を訴えます。然し世情に疎い尋尊は、却(かえ)って越前守護代であった朝倉孝景にこの反銭の取立を依頼します。ところが、彼は悪辣な人物でしたから、これを口実に武力を以て坪江・河口両荘の横領を開始しました。
 尋尊は困り果てゝ、前任者の經覚に相談します。經覚は孝景の呪咀調伏(じゅそちょうぶく)を行うように尋尊に勧めると同時に、蓮如を尋尊に引き合せました。そこで尋尊は寛正四年(一四六三年)、本願寺へ出向いています。更にその翌々年の寛正六年、經覚と尋尊と蓮如の三人は、奈良で会合をします。その時經覚は蓮如に孝景紹介の手紙を渡しています。
 そこで蓮如は朝倉に会いに行きますが、冷たくあしらわれ、極めて不愉快であった。然し何(いず)れ蓮如は自ら河口の荘へ移住して、興福寺と荘民との間を取成(とりな)しましょうと經覚に約束した―というのが先に述べた經覚日記の要旨です。寛正六年の事ですから、丁度(ちょうど)比叡山衆徒によって、本願寺が焼き討ちされた年です。そこで比叡山の目を逃れ、あちこち転々として、未だ南江州での布教を始めていませんでした。


吉崎御坊建立を指揮する蓮如上人
 吉崎御坊建立を指揮する蓮如上人

 然し、やはり蓮如の忠告を気にしたのでしょうか、また呪詛の調伏が怖かったのでしょうか、その年の内に、朝倉孝景は大乘院に告文(こうもん)を差出しています。これにより事件はそこで解決するわけです。告文というのはおそらく始末書・謝罪文のようなものだと思いますが、もう荘園横領はしませんと誓ったのでしょう。
 こうして經覚、蓮如、尋尊、三者の話合がつきます。第一に、蓮如は時期を見て河口・坪江両荘の中へ住居を移し、そこで布教に専念する事を大乘院は認める。第二に、蓮如は大乘院に代って荘民から年貢を取立て、それを大乘院へ届けましょうと約束した、ということです。
 經覚は蓮如を信頼し切ってこの河口・坪江両荘園を彼に委ねたのです。然し蓮如は、未だ門徒でも何でもない荘民達を彼の意向に従わせるなんて、とんでもない約束をしたものです。蓮如は孝景のように武力は一切持っていません。荘民達の信頼を得なければ、年貢上納は実現しません。蓮如上人はとんでもない約束を經覚と結んだわけですが、經覚もそれをすっかり信用したのです。
 ところがこの時から五年後の文明三年(一四七一年)、初夏上旬、上人は越前、加賀巡化に出発すると、その年の七月にはこの吉崎御坊を建て始めて上棟式を行います。御山(おやま)と呼ばれているこゝから目の前に眺められるあの山の上にそれが建立されました。すると蓮如が布教して歩いた越前・加賀から人々が詰めかけて来て、お寺の周りに何百軒と宿坊を建てゝ、あっという間に町(寺内町)ができました。同じ文明三年のことです。つまり、初夏に越前・加賀に来て、夏にお寺を建てて、秋になるとあまりにも大勢の信者が詰めかけるので、山門の扉を閉めなければならないという程になったのです。
 実に驚天動地(きょうてんどうち)の事です。恐らく日本の歴史の後にも先にも、このような奇跡は見られますまい。
 蓮如上人の教化布教の爆発的と形容できるこの大成功の原因はどこにあるのでしょうか? 彼の確固たる佛法信仰、そしてまゝならぬ世の中の不幸に苦しむ人々にアミダ佛の教で救われて、幸福、安心な生活の喜びを感得させなければ措(お)かぬ意欲が、この偉業を成し遂げしめたに違いありません。


上人による驚天動地の教線拡充を解明する台下の記念講演
 上人による驚天動地の教線拡充を解明する台下の記念講演

 然し同時に、彼が彼の時代の流れに通暁(つうぎょう)していた事に惟(おも)いを致さねばならないでしょう。初めに申しましたように彼の生きた室町から戦国に至る間は歴史の過渡期でありました。即ち荘園制度が崩れて、郷、惣村と呼ばれる農民の自治組織が誕生する時代でした。夫々(それぞれ)の村々が定期的に会合を持って村内の言而(いわば)政治、経済を自主的に取決めるようになった時代です。その内容は、繰り返しになりますが、田の灌漑や山の入会権等に至る迄、然し最大の問題は各人の年貢の割当ではなかったかと思います。
 こういう会合では(私の想像ですが)喧々囂々(けんけんごうごう)たる議論が闘わされて、その場は屡々(しばしば)険悪な空気に包まれた事でしょう。何しろ一人々々の利害が絡んでいるのですから。
 この郷の寄合に、蓮如上人は恐らく進んで参加され、人々の相和(あいわ)する喜びを、人世を楽しむ事を教えられたと思います。人々がお互いの心を識合(しりあ)う必要があるだろう。そしてそれは佛の慈悲と智慧に触れる事にあるのだと教えられたと思います。
 先ず何よりも話合うべきである、「物を言え/ \、物を言わぬ者はおそろしき……」と『蓮如上人御一代記聞書』にもあります。
 凡(およ)そ一介の荘民であった彼等は、毎日物言わぬ土を相手に唯黙々と働いていました。然し時代と共に農民の富裕化が進み、生活にゆとりが出て来ると、世帯を持つ者も現われ始めます。一家団欒が生れます。上人はこういう時代の変化を敏感に読み取っていました。
 又先に百姓請の事も申しましたが、年貢を自主的に地頭や荘園の本所、領家へ届けるとなると、運送業など、農業以外の職業も必要となって来ます。ですから郷、惣村は様々の身分、職業の人々の集合体となります。
 そこで例えば近江の堅田のように、これ等の自治体が町に変形して行く傾向も生れます。京の都などでは、自治組織を指導するような立場に立つ人々は「町衆」と呼ばれるようになります。「町の人」、つまりフランス語で言えば「ブールジョワ」、ドイツ語のブルク(町)の人々です。

「自利、利他、慈悲」の商いの心


 蓮如はこういう時代の趨勢にも目敏(ざと)く気付きました。十ヶ所程の近江の蓮如門徒集団はこういう言而町化した自治体でした。そしてこれ等集団の安全の為に周囲に堀や塀を築いて自衛手段を取る事を彼は案出したのです。こうなると人々は我も/ \と安全なこの自治体の中に住居を求めるようになります。こうして蓮如上人の浄土真宗教団は、瞬(またた)く間に強大化して行きました。  こういう上人の力量を認めた經覚が、彼に坪江・河口両荘の年貢取立を一任したのです。果せるかな蓮如はこの興福寺荘園内のみならず、越前、加賀、更に越中の西半に迄、大半の人々を彼の教団に引入れる程の空前の布教成果を挙げています。  上人は寄合で「をのれのすがたにて、あきなゐをするものはあきなゐをしながら、奉公するものは奉公しながら、さらにそのすがたをあらためずして不思議の願力を信ずべし」と信心を第一義に説き、自身の生業(なりわい)に時として罪悪感を抱き兼ねない商工業者、運輸業者等の精神を解き放ちます。利害関係のぶつかり合う淀んだ寄合の雰囲気の中に吹き込んだ清風の如く、上人の教は一同の心の中に滲み込んだのでした。  又嘗(かつ)ては荘園領主や守護地頭に搾取される一方であった彼等に、佛法の自利利他、慈悲の教から、自利=「売り手よし」、利他=「買い手よし」、慈悲=「世間よし」の「三方よし」の思想の原形を育んだのでした。  是(かく)の如く概ね近江で始まった蓮如上人の町作りで、嘗ては搾取される一方であった庶民は、郷内に住む様々の職業の人々が、町の中の誰しも安定した生活を営めるよう、協力し合って、「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の近江商人として次第に育って行きます。  蓮如も亦(また)この近江を皮切りに考案した自衛手段を持つ町作りによって、教団を急速に拡大し、この経験を因(もと)にこの吉崎の御山全体を切り開いた大都市要塞吉崎「寺内町」を僅か三ヶ月で造り上げ、四年後には畿内に帰って、一層本格的な山科本願寺寺内町を、そして更に日本第二の大都市となる大坂寺内町を建設するに至るのです。  先程述べた通り、近江で強固な教団を築いた蓮如上人は武力弾圧を繰り返す比叡山に対し、金ヶ森等、布教の拠点となった町に堀を巡らせた町づくりを既に行なっていました。これが環濠(かんごう)要塞都市の原型です。現に攻め寄る比叡山衆徒を撃退して、初の一向一揆とされる戦もこの金ヶ森で行なわれました。


「佛法よし」加えた「四方よし」


 即ち、蓮如上人は本願寺継職以来、永年の悲願だった吉崎での布教に備え、「寺内町の実験」を近江で行ない、その経験を活かして我国初となる本格的な環濠要塞都市を吉崎で完成させたのです。そして、蓮如上人は寄合によって近江商人の前身を金ヶ森等で育み、その多くが移住した大坂石山本願寺でも再び、彼等の教化に努めて、後の町人層となる大坂商人の誕生に繋げたのです。
 更に付言すれば、近江商人は江戸後期、商いで得た利益の多くを真宗寺院に寄進しています。これも蓮如上人の薫陶による佛徳への感恩(かんおん)の発露(はつろ)が代々受け継がれて来た証で、この御佛への報恩行を「佛法よし」と呼び、「三方よし」に加えて「四方よし」と名付けてもよかろうかと私は思います。
 世界に誇るこの「四方よし」の崇高な商いの精神を、日本人が改めて学び、昂揚し、広く国際経済の新たな価値観となる事を願い、私の講演を終りとします。
 ご清聴、有難うございました。