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節談説教

吉崎御坊三大奇瑞(よしざきごぼうさんだいきずい)

「御在世の ひびの御足を 偲び泣く」 本願寺第二十三世 句佛上人
 蓮如上人が現在の福井県あわら市、吉崎の地に吉崎御坊と名づく坊舎をご建立なされたのは文明三年(1471)のことであります。比叡山の本願寺に対する度重なる暴挙により、京を後にされましたが、佛法興隆の大いなる志のもと門徒の教化を願われ北陸に御下向なさいました。
 上人のご教化の拠点となった吉崎は急速に発展し、北陸中から門徒が押し寄せ、門徒たちが居住、宿泊するための多屋(たや)が造られ、馬場大路(おおみち)の南北に大門が造られ、棟数は200軒に及びました。この快挙、奇跡にも蓮如上人は「其謂(いわれ)は、ひたすら佛法不思議の威力なりしゆえなり。」と鼻にかけることはありません。
 蓮如上人が吉崎におられた頃の逸話は数多くありますが、主なもので「吉崎御坊三大奇瑞」という3つの奇譚が伝わっております。「嫁威(よめおど)し肉(にく)附(づ)きの面」「焼け残りの名号」「腹籠(はらごも)りの聖教(しょうぎょう)」の3つです。いずれも吉崎での蓮如上人の御教化のご様子が伺えるお話です。

嫁威(よめおど)し肉(にく)附(づ)きの面

 吉崎御坊ご建立の文明三年(1471)4月より9月まで、蓮如上人の来越から半年たらずの間に吉崎寺内町門内外に多くの多屋が建てられ吉崎は大盛況となりました。裸一貫で越前に来られ、人力も財力もない中、上人のご信心と、志がこの偉業を成し遂げられたのです。上人のご教化を受け、北陸の人々に信仰心が湧き起ったのですが、それでも信仰とは無縁の人、またお念佛に励む人を謗る輩も当然北陸にはいたのです。
 遠近各地より吉崎御坊に大勢の人々が参詣する中に、お清(きよ)という若い嫁がいました。毎晩毎晩足繁く佛法聴聞に通われていたそうです。しかしながら、このお清の姑が御坊参りに大層邪見をしておりました。この姑、名をおもとといいます。御坊参りをする若い嫁が気に食わない。蓮如上人の下(もと)へ夜な夜な参る嫁の邪魔をしようと考えるのです。
 ある夜のこと。おもとはお参りを終えたお清を驚かそうと、藪の中で息を潜めて待っていました。顔には鬼の面をかぶり、手には鎌を携えた恐ろしい姿でありました。お念佛を唱えながら歩いてくるお清が近づくのを見計らって、勢いよく現れたのですが、ところがお清、驚き腰を抜かすこともなく、この鬼を見据えたまま、「食(は)めば食(は)め。喰らわば喰らえ。他力信心よもや鬼まで喰らむまい。なむあみだぶ。なむあみだぶ。」引き続き念佛を唱えるばかりでありました。
 どうしたことだ、恐ろしい姿で驚かしてやればもう一人夜道を歩けることもない。御坊通いもやめるはずとの考えが一向通用しない。慌てたおもとは急いで家に戻りました。先に家に帰り面を取って何食わぬ顔で待っていようと鬼の面を外そうとしたのですが、面が外れない。顔の肉と一緒になったかのようにいくら力んでみても面が外れる気配が全くないのです。困り果てているところへ、お清が帰ってきました。
 家に帰って目にしたものは帰り道に自分を驚かそうとした鬼でした。すぐにこれは母おもとだと気付いたお清が、その理由を訪ねてみれば、困り果てたおもとは正直に訳を赫赫(かくかく)云々(しかじか)打ち明けたのです。心から悪かった。この鬼の顔は私の心そのままです、と打ち明けるおもとに対し、お清はその手を引いて鬼の顔を隠して、再び蓮如上人の下へと参られたのです。
 御坊に着き、この鬼の姿をご覧なられ一部始終をお聞きになられた蓮如上人はおもとに対して、「お前は正直者だ」と申されました。「なぜ私が正直者なのですか」と訪ねると、蓮如上人「懺擬(ざんぎ)心なきものは人にあらず。自ら改悔懺悔(かいけさんげ)する者を弥陀如来は必ず救い摂(おさ)め取られるのですよ」と仰せになられたのです。おもとは感涙に咽び泣きました。そして蓮如上人は鬼の面に手をかけると、どうしても取れなかった鬼の面が見事外れたのでした。その後のおもとは、お清と共に吉崎御坊に通い篤信の門徒となられたのでした。

焼け残りの名号

 「おれほど名号かきたる人は、日本にあるまじきぞ」
(蓮如上人・空善聞書)

 真宗では、親鸞聖人が「無上佛というのは形がない」とお示し下さいましたように、名号が古くから第一の本尊とされて来ました。蓮如上人はこの名号幅を生涯にわたって数多くご染筆されました。上記のお言葉のように、ご自身でも日本一の名号書きを自負され、吉崎でも多くの名号をお書きになられました。
 文明6年(1474)3月28日酉の時(午後6時頃)、南大門の多屋より火があがります。吉崎の寺内町は南北に南大門・北大門がありその間に馬場大路があります。南大門の火の手が北大門に移って焼いたと帖外御文に記されていますので、寺内町全体が火事になったということです。吉崎山は見る影もなくなりました。しかし、蓮如上人は門徒たちと力を合わせて、町をすぐ復興し、吉崎は繁栄を取り戻します。上人の布教の生涯はいつもこのようでした。後から後から災難が襲いかかりましたが、そのたびにそれを克服して、本願寺教団は力強く成長を続けました。
 「焼け残りの名号」は灰塵と化した御坊跡から発見されたものです。同じく焼け残った十字名号のお話しは空善聞書(くうぜんききがき)にも記されています。火中にあって焼け落ちない名号は、上人の人生、そして本願寺教団の象徴のようです。
 本願寺眞無量院吉崎御坊では、「焼け残りの名号」が今も現存し、大切に保存されています。吉崎御坊にお参りの際には是非「焼け残りの名号」に参詣ください。

腹籠(はらごも)りの聖教(しょうぎょう)

 毎日朝夕に読誦している正信偈などが記されている声明本。この本には、真っ赤な表装のものが多く見られます。この本の赤色は一説では血染めの赤と云われています。声明本もそうですが、浄土三部経の経本をはじめ、親鸞聖人の著作や御歴代上人の著作などは古来より聖教(しょうぎょう)と呼ばれ、大切に扱われてきました。
 文明6年(1474)3月28日の吉崎御坊火難の時、蓮如上人は何とか火災から逃れることができました。しかしながら、急いで出てきたせいもあり、火中の吉崎御坊に忘れ物がございました。その忘れ物とは、浄土真宗の根本聖典「教行信証」です。全6巻の教行信証の内の1巻が火の中に置き去りです。しかもこの本は親鸞聖人御真筆のもの。貴重で大切で代わりのきかないものなのです。茫然と佇む中、一人の弟子が「取って参ります」というのです。この方の名を本向坊了顕(ほんこうぼうりょうけん)と申します。一同の制止を振り切って火の海へ飛び込んでいった本向坊が教行信証の巻物を発見し懐に納めてから、引き返そうとしますが、引き返そうにも戻り道が塞がって引き返すことができません。このままでは命もろとも巻物まで燃えてしまうと、意を決した本向坊は懐中より小刀を取り出し、自らの腹を十文字に捌いたのです。自ら腸(はらわた)を引きだし、その腹中に巻物を深く摂め入れられ聖教が燃えるのを身を挺して守られたのです。
 焼けた御坊跡には真っ黒に煤けた本向坊の姿がありました。急ぎやってきた蓮如上人に対し、本向坊が自身の腹を指さし息絶えたそうです。本向坊39歳の往生でありました。この本向坊の遺徳を偲び真っ赤な表装の声明本が生まれた一説があります。本向坊のような篤信の行者や同行によって今日(こんにち)私共がお法(みのり)に出遇う縁が紡がれてきたのです。

合掌
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